椿姫の成功

日常

私にとって歌は私そのもの。だってこの体が、声が楽器というのなら私は仕事道具として大事で必要なものでなくてはならないでしょ。でもその事に昔は気付けなかった。

杯を片手に持って歌うけれど、私はこの杯に戸惑っていた。自分の器量にも力量にも疑問を持っていたの。それはどれだけ練習を重ねようとも、やってもやっても不安が拭えなかった。自分の欠点ばかりが目について、それを受け止められなくて戸惑う。

もっとちゃんと出来ていなかった自分を落ち着いて受け止めて、毎日あふれ出てくる不安や焦りに向き合ってさえすれば、それだけで良かったのだけれど、あの頃の私にはその強さは無かった。

だから同業者からもずっといじめられてた。華やかな衣装に身を包んで、きらびやかな世界に見えるけれど裏では、し烈な競走の世界だった。

公演もまだまだ続く中で、歌っていかなくてはならない。でも油断をすれば、すぐに足を引っ張られて堕ちてしまう。常に色々な恐怖がついてまわった。

身体的な暴力や攻撃も少しはあったけれど細心の注意を払えば、どうにか防げた。けれど言葉の暴力や、えもいわれぬ雰囲気の中で、得体の知れない無言の圧に耐える日々はどうにもならなかった。全てが自分への攻撃だった。

それでも逃げられなくて私にとって当たり前の生活になってた。

本当に今がどういう状況かが全く理解できなくて、自分が何をしているのか、何をされているのかも分からず、ただ杯を上に向けて歌ってた。

一番、情けなかったのは自分の中で何よりも歌を愛して精一杯、歌っていた自分に気付けなかったこと。

最終的に私は声が出なくなってしまって、色んな人に迷惑をかけて、その場を去ることにした。

今でもあの頃を思い出すと苦しい。けれど、それ以上に最近、気になる事がある。

ある話の席で若くて可愛い女の子が自身がいじめで苦しんだ話をした。それを聞いて喜ぶ私がいた。

確かに私はその可愛らしい女の子の「いじめる」という言葉に喜んでいる。私の中で、この言葉がまだ必要なのかと恐かった。

私はまだ人をいじめる事を、人からいじめられる事を必要としていたのだろうかと愕然とした。それで悩んで、私は人の苦しみを喜ぶ人間だと思い込もうとさえした。

でも違う。散々、それで苦しんできたのに、そんなはずは無い。私の中で、もうそこを疑う必要は無かった。

人や何かのせいにして、それに甘えて攻撃する自分もちゃんと見付けられた。再起不能なぐらい落ち込んだけれど、今はこうやってまた歌を歌ってやり直せているから。

最低な言葉と思い込んでいたけれど、私は確かに「いじめる」という言葉が必要。では何を「いじめる」というのか。

「自分を自分でいじめぬく」

これが私の欲しい言葉だった。これが出来れば、私は最高で成功でしょ。

言葉は変えるものです。

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